雨蛙
 けたたましくアスファルトに打ち付ける雨が、黒々とした雲から断続的に空を貫いていた。つい先ほどまで渇き熱されていた路上も水に濡れ、多数の水溜まりが路傍を埋め尽くす。そんな豪雨の中でもなお熱い空気は、むせ返るほどの湿気を含んでいる。
 通る人間の誰も気づかない、道の端の暗がりは、跳ね返る雫できらきら照らされる。その中には、もう力尽きて動かない蛙が一匹、水溜まりの中を漂っていた。
 彼には意識などない。相合傘をしてこの道を行く二人の少女達にも、気がつくことなどない。永久に。しかし、それでよかったのだ。少女達もまた、彼には干渉しない……何があろうと、もうできないのだから。今の彼らは確かに、対等だった。
 少女達は暗い空のもとを、鮮やかな水色の傘を差して歩いた。
「急にこーんな雨降るなんてねぇ」
「そりゃあ、夏だから。あぁ……暑い死ぬ」
「さっきからずっとそれしか言ってないよ?」
「暑い、死ぬ」
「死なない死なない。傘のお礼にとは言わないけど、うち着いたら麦茶でも飲む? あ、あとアイス余ってるんだ! 一緒に食べよう」
「ありがと、そうする」
「よしきたっ」
 一人は楽しげにはしゃぎながら、一人は茹だる暑さに呻きながら、他愛ない会話を紡いでいく。
「……夏、嫌いだ」
「どうして?」
「暑いから」
「おおぅ、至極シンプルかつ単純な理由だねぇ」
「好きなの?」
「うん。緑と命が溢れる夏、ってね!」
「クサいな」
「えへへ。でもほら、生き物いっぱいだとなんか楽しいから」
「蚊とか、蝉とか?」
「それは別だよ!」
「すごく差別的」
「仕方ないじゃんー。蚊は痒いし蝉は顔に激突してくるし!」
「激突?」
「あれはつらいし怖いよぉホントにっ」
「トラウマものだね」
 少女達の交わす明るく賑やかな会話も、この雨の中ではどこか白々しい。
 二人は進み、ふいに、一人が足を止めた。彼女は息を呑むようにして目を見張り、その視線を――濁った雨水の中を漂っていた彼に、向けた。それまで意味を持たなかった存在に、気がついたのだ。
 彼の姿は醜悪だった。こんな暗く湿った不快極まりない陽気と同調でもしたかのように、誰もに「嫌い」と言われて仕方のない醜悪さを全身に纏っていた。生命を宿さない彼の淀んだ黒目が、何かを祈るように天を仰いでいた。
 次の刹那、少女は駆け出していた。友人を傘の外に置き去りにして、バシャバシャと水を蹴る。醜悪な彼に近づき、眼前まで来て、止まる。
「ええぇ、ちょっと、いきなりどうしたの!?」
 瞬時にずぶ濡れになった置き去りにされた少女が、大慌てでそちらに駆け寄る。傘を持った少女は、彼をじっと見下ろして、ただ息を詰まらせている。
「……命溢れる夏は、同じだけ、死ぬ夏」
 ぽつりと呟いた。
「え……? あ、蛙?」
「そう、死骸」
「うわぁ」
 言うと、ずぶ濡れの少女は口元を押さえて、また傘から出てしまうこともいとわずに一歩後ずさった。その反応に、もう一方の少女はそっと目を伏せる。
「なんか、かなしいな」
 夏はやっぱり嫌いだ、と。そう宣った。
 暴力的な雨は、皮肉にも美しく煌めいて灰色の地から黒い天を照らす。その只中で彼は、人間に哀れまれることで、存在に意味を得た。


「今日はごめん、ずぶ濡れにしちゃって。アイスごちそうさま」
「ノープロブレム、夏場に傘を持ち歩かないような馬鹿は風邪を引きません! また来てね」
「自分で言うのね……うん。それじゃあ」
 少女が踵を返し帰路につく。その頃には雨はすっかり止み、地上にはくっきりとした雲を映し込む大量の水溜まりだけが残されている。少女は、足元に広がる鏡面を眺めながら歩を進めた。
 暫しして、少女は彼のいた場所に辿り着く。雨水でどこかへ流れてしまったのか、そこにあの姿はなかった。ただ大きな水溜まりが、明るい空色をして静かに揺らめいていた。
 何気なく、見上げる。
 雨上がりの空にはまだ黒い雲がいくらかあって、しかし雲間からは鮮やかな水色が顔を覗かせている。白く荘厳な光の筋が、蒼い天空からここまで、やわらかに差し伸べられていた。
 少女は眩しげに目を細め、ほんの僅かに唇を動かして言う。
「……追悼なんて、都合が良すぎる」
 暖かい風が吹く。
 夏だ。
(雨上がりの空は、嫌いじゃない)
 やがて、少女は何事もなかったかのように歩き出した。


2016年3月執筆

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